私のルーツ by高尾

どうも。高尾です。

 

先日、某会でマ〇〇発条というお会社の山〇さんという方が…

『三協さんの高尾君のブログ見てるよ!しょ~もないことばっかり書いて!!』

と野球でいうところの「デッドボール」を投げてきました。

 

文句を言う割には、『〇〇の回で〇〇してたね』とか『〇〇行ってたね。あそこどうやった?』

とか、やたらと詳細に語るその姿からは「熱心なファン」にしか見えなかったが。

 

今回もしょ~もない『私のルーツ』ブログをお届けするので、よく見とけよ!山〇君!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

↓私のルーツです↓

どうや!?おもろいやろ!?山〇君!!

まさかの無糖やで!?あかんか!?

 

 

 

 

 

 

 

 

↓私のルーツです↓

これはどうや!?これはおもろいやろ!?

山〇悠介君(4〇歳)!!

まさかの釣り糸やで!?¥2,200もすんねんで!?

 

 

 

 

…………ふう。

 

 

山岸君もこれで二度と文句言う気は起きまい。

(あっ!名前言うてもうた!!…まっ、ええか…。)

 

 

 

ここからは真面目に書きますのでとくとご覧あれ。(もちろん山〇君もね)

 

 

 

 

《1982年4月24日07時36分 誕生》


 

高尾家の次男として誕生。

母曰く…

『長女も長男も誕生してたから、あんた産むの悩んだんやけど…

近所の寿司屋の母ちゃんに勧められて産むことにしたんや。』とのこと。

 

…寿司屋の母ちゃんありがとうございます。

 

 

 

《幼稚園時代~ふたば保育園(現:ふたばこども園)~》


 

『近所の子が通っているから』という理由で隣町の保育園に通わされていました。

この保育園はお寺が経営しており、園長さんが実はお坊さんでした。

祖父の法事にここの園長が来て、お経を唱えている姿を初めて見たときは…

『園長!?』ってビックリしたのを覚えております。

 

 

…で行ってみました。

 

 

園内に入ることは叶いませんでしたが、なんともいえない懐かしさを感じました。

初恋だった担任の先生は今どう過ごしているんだろうか?

 

 

 

《小学校時代~新高小学校~》


 

地元の小学校に入学。当時大流行していた『スラムダンク』の影響を受けて、4年生

からしか入部できない校外活動のバスケットボール部に所属する。

 

4~6年生で部員は50名ほどの中から、5年生でスタートメンバー(5人)に選出。

ポジションはPG。

あこがれの選手はNBAレイカーズのマジックジョンソン。

ノールックパスを模倣したプレースタイルで、この頃はよくモテました。

今は、長女と長男が私と同じこの学校に通ってたりします。

 

 

 

《中学校時代~三国中学校~》


 

地元の中学校に入学。

何を勘違いしたか中1の時に周りに煽られて生徒会の書記に立候補する。

で、まさかの当選。1年間後悔しながら過ごす羽目に。

 

部活はサッカー部に仮入部したが、運が悪いことにJリーグが発足した年で、部員が120名ほど在籍。

練習時にボールが足りなくて、1日中声出しばかりやらされる環境に疑問を感じわずか3日間で退部。

 

ギターを始めたり、バンド活動を始めたのもこの頃。いや~懐かしい。

 

※毎週通っていた三津屋にあるスタジオ(機材がすげぇ豊富なんじゃ~)

 

 

 

《高校時代~東淀川高校~》


 

『もう1ランク上の高校を目指せへんか?』という中学校担任のアドバイスを無視して、

『近いから』という理由で東淀川高校へ入学。

 

本格的にバンド活動を始めて、関大前の『THホール』というライブハウスによく出演した。

チケットノルマなどがあり、社会の厳しさを学んだのもこの頃。

 

最後の方はドラム担当してたけど、20歳頃までこんな感じでやっとりました。

 

 

 

《大学時代~大阪商業大学~》


 

『大学行ったら4年間遊べるぞ?就職したら一生働かなあかんぞ?』という父の脅しに

屈した私は、大学へ行くことを選択。

地方出身者数名と仲良くなり、一人暮らしの友人宅で料理対決をしたり、卒業旅行へ

行ったことが最大の思い出。半分ぐらいサボっていたので、単位ギリギリで卒業。

 

 

 

《~その後~》


 

出向で3年間という条件で愛知県名古屋市にある『後藤工業』さんへ。

ばねのイロハを教えて頂きました。(日々感謝を忘れたことはありません)

 

愛知県在住中に嫁との出会いがありました。

出向期間終了に合わせて結婚。

 

で、令和元年を迎えた現在ですが…

 

あっという間に結婚11年目を迎えました。

2人の子宝にも恵まれ、おかげさまで家族それなりに幸せに過ごしております。

 

※後ろの2人は他人です

 

今回、このブログを書くにあたって色々と昔の資料を探していると、小学校2年生に書いた

『将来の夢』という作文が出てきた。

 

 

幼き頃に願った私の将来の夢は…

 

 

 

 

『タクシードライバーになる』

 

 

 

でした。

 

 

全然ちゃうことしてるぞ~。

夢叶ってないぞ~。

でもそこそこ幸せやぞ~。

これからも頑張れよ~俺。

~?fin?~

 

 

 

《番外編~ルーツとトラウマは紙一重~》


私には6歳離れた兄がいます。

 

私が9歳(小3)のころ、彼は15歳(中3)。

当時の彼の大好物は、ほっかほっか亭の『鮭弁当』。

当時、子分だった私はよくこの鮭弁当を買いに走らされていた。

 

 

 

彼は、弁当に入っている「昆布」が日本一うまいと豪語していた。

 

※今考えると…何の変哲もないただのごま昆布だと思うのですが…

 

ある日のこと…

 

兄 『鮭弁買ってきてくれ。昆布大盛りな!!「鮭弁昆布大盛り」って言えよ!!』

私 『えっ?昆布大盛り!?ご飯じゃなくて!?…無理ちゃうかな?』

兄 『言うたことあるんか!?おっ!?言うてみたらええんちゃうんか!?おぅ!?』

私 『…とりあえず…行ってきます。』

 

(自転車で5分。ほっかほっか亭へ到着)

 

 

私  『あの…。すみません。鮭弁当を1つ。……昆布大盛りで……。』

店員 『はい?(じっとこちらを見て沈黙)…。』

私  『あの…。鮭弁昆布大盛りで!!(たぶん顔は真っ赤)』

店員 『…は~い。鮭弁1つですね~。¥280です。』

 

 

ほんまに言われた通りに注文してきましたよ。

思春期真っ盛りの9歳児が。

 

 

で、苦労して持って帰ってきた「鮭弁当」を見て彼は…

何て言ったと思いますか?皆さん。

 

 

 

『全然大盛りちゃうやんけ!!お前ちゃんと言うたんか!?』

 

 

 

ちゃんと言うたよ…僕。

いつもより多めにはなってたやん…昆布。

めっさ美味しそうに食べてたやん…。

 

 

この弁当屋は現在も存在し、その後も数百回はお世話になっている。

私のルーツを語るうえで欠かせない存在なのだが、『鮭弁当』だけは

注文できなくなった高尾であった。

~完~

 

 

 

 

 

 

 

 

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